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2021.09.24 【ボール スタンダードの黎明_キプトンの悲劇】
スイスやイギリスで“クロノメーター”が高精度時計の代名詞となったように、アメリカでは“鉄道標準時計”が、正確な時間の象徴として認識されてきました。 広大なアメリカ大陸を支配した鉄道網を管理/運行する厳格無比な時間基準。その原型を築き上げたひとりが、BALL Watchの創業者であるウェブスター・クレイ・ボールでした。今年でブランド創立130周年を迎えるにあたりまして、複数回にわたり創業当時を振り返りたいと思います。
現代の時計産業において、「クロノメーター」という言葉は、高精度であることの代名詞として知られています。この言葉は、1714年にイギリス人時計師のジェレミー・サッカーが初めて用いたとされていますが、その重要度が増してくるのは1748年にピエール・ルロワがデテント脱進機を発明して以降のことになります。同時にルロワは温度補正機能付きの切りテンワも開発し、船舶航行用のマリーンクロノメーターが“量産可能”になりました。工業的規模で生産されるようになったマリーンクロノメーターの品質を、“一定の基準内”に収めることが、1776年に初めて行われたクロノメーター検定の主目的でありました。当時の時計先進国であり、同時に海洋大国であったイギリスにおいては、マリーンクロノメーターこそが高精度の象徴でした。
19世紀の中頃まで中級エボーシュの輸出で外貨を獲得してきたスイスの時計産業は、いちはやく工業化に成功したアメリカの大量生産エボーシュに圧倒されるようになります。1876年のフィラデルフィア万博を通じて、工作機械の自動化と構成部品の互換性向上、すなわち工業化の手法を学んだスイスは、19世紀末に大きく躍進を遂げます。ヌーシャテルに始まったとされるスイスのクロノメーター検定が盛んになってゆく過程は、高精度ムーブメントの量産化に成功する過程と歩みはまったく同じでした。
他方、スイスに先んじて工業化に成功したアメリカでは、クロノメーターではなく鉄道時計、とりわけ「オフィシャル レイルロードウォッチ」が、高精度の代名詞となっていきます。しかし、フィラデルフィア万博に前後する工業化の黎明期から、鉄道時計が高精度であった訳ではありません。ある悲劇的な事故が引き起こされるその時まで、実情は全く逆でした。
1891年4月18日。この日の夕刻、オハイオ州キプトンで起こった鉄道事故は、アメリカの時計史を大きく変えることになります。その中心となった人物が、事故調査を委任されたクリーブランドの時計師、ウェブスター・クレイ・ボールでした。まず、州事故調査官の報告書から事故の様子を再現してみましょう。レイクショア&ミシガンサザン鉄道の線路上を、ボストンに向かって走行していたニューヨーク・ファースト・メールの速達郵便列車「No.14」は、キプトンに差し掛かろうとしていました。一方、同じ線路上をシカゴに向かって逆進してきたトレド急行「No.21」は、事故現場から約25マイル離れたエリリア駅で電信を受け取り、キプトン付近の待機線で「No.14」を先に通すように指示を受けていました。しかし、「No.21」がキプトン駅に停車する直前、そこに「No.14」が時速約45マイルで(72km/h)突っ込んできたのです。翌日の「クリーブランド・プレイン・ディーラー」紙が報じたところによると、隣の線路にいた貨物列車も大きな被害を受け、駅舎は飛散した列車の破片でほぼ全壊。両列車の機関士と乗員、計8名が死亡してしまったのです。
州事故調査官がまとめた事故原因は次の通り。「No.21は、前駅のオバーリンを8分遅れて発車したため、4.6マイル離れたキプトン駅に、定刻に到着することは不可能であった。しかし、No.21の機関士と車掌は定刻に到着し、待避線に入るまでに3分の時間的余裕があると考えていた」。ならばなぜ事故は起こってしまったのでしょうか? 実際には、電信を受け取ったエリリア駅をNo.21が出発する際、車掌は一度も自分の時計を取り出して時刻を確認しておらず、さらに機関士の時計はその時4分ほど遅れていたのです。この事実を突き止めたのが、ウェブスター・クレイ・ボールでした。のみならず彼は、事故の翌日から6月17日の間にレイクショア鉄道の全線において時刻管理の実状と鉄道員たちが使用していた時計の状態を確認し、調査終了から約4カ月を費やして報告書をまとめあげました。その内容は驚くべきものでした・・・
To Be Continued…